ふるさと会員登録
久喜銀山について
最新情報
活動内容
イベント等・お申込み
島根県邑智郡邑南町 久喜銀山振興協議会
◆久喜銀山の歴史
3、明治期の民間による久喜鉱山の開発
(1)明治期の民間人による鉱山近代化の成功例
1890年(明治23年)に日本抗法にかわり鉱業条例が制定されると、鉱物採掘の官民の区別はなくなり、住友、三菱、古河など大規模な民間資本による鉱山開発が進みました。
その中で、民間中規模な鉱業者であった津和野の堀家は中国地方を中心に多くの鉱山経営を行いました。久喜銀山も1888年(明治21年)に「中国の銅山王」と称された堀藤十郎礼蔵が探鉱を開始し、島根県内では銅ヶ丸鉱山、宝満山鉱山、県外では山口県の長登鉱山、兵庫県の多田鉱山などの鉱業権を次々に取得し、その規模を拡大していきました。
久喜銀山では、1900年(明治33年)から銀鉛鉱の精錬を開始し、1903(明治36年)〜1904年には堀家経営の鉱山で最も利益を生み出した鉱山であり、民間鉱業家による鉱業近代化の成功例として顕著なものと言えます。
◆久喜銀山の位置づけとその評価
2.戦国時代の毛利領内の経済・軍事を担った銀と鉛の生産遺跡
先述のとおり1590年頃の様子を描いたとされる「石見国図」には、「くき銀山」という表記が見られ、16世紀末には当鉱山が開発されていたことは明らかです。久喜銀山は戦国大名毛利氏の支配を受け、後に産銀の一部は豊臣秀吉に対して上納されました。
戦国期には鉄砲が普及したので、鉄砲玉等の軍事物資としての鉛の需要が急増し、領主権力にとって鉛は銀と同じく、極めて重要な金属でした。
その供給元として、毛利領内では蔵目喜鉛山(山口県山口市阿東町)とともに久喜銀山が有力ですが、毛利氏の本拠の吉田郡山城(広島県安芸高田市)から久喜までは直線距離で約20キロと圧倒的に近く、毛利氏が久喜を重要視した可能性は非常に高いと言えます。久喜銀山創業期の永禄年間(1558〜1570年)以降、久喜銀山は経済・軍事の両面で毛利家を支えた鉱山であったと考えられます。
久喜銀山遺跡
目 次
◆ はじめに
2. 江戸時代の久喜銀山
島根県 邑智郡 邑南町 久喜
◆ 久喜銀山遺跡の調査
1. 日本の古代中世の
銀生産技術を示す典型例
◆ 久喜銀山の地質鉱床
1. 採掘跡等分布調査
◆ 久喜銀山の歴史
2. 発掘調査
◆ 遺跡の概要
3. 石見銀山との関係
1. 戦国時代から安土桃山時代
(1) 縄手吹所跡発掘調査
(2) 床屋吹所跡発掘調査
◆ 今後の調査研究の課題について
◆遺跡の概要
久喜銀山は、石見銀山の南南東、約35キロの中国山地に位置し、南側は広島県と境を接しています。鉱脈が分布する範囲は、邑南町南東部の東西3キロ、南北2キロ、面積は約5平方キロメートルになります。
久喜銀山は日本最初の銀を産出した対馬の鉱山と同じく、鉛鉱を採掘した鉱山です。精錬で得た鉛に少量含まれている銀を灰吹法で分離し、銀と鉛を生産します。この鉱山は16世紀の絵図に「くき銀山」と記されていることから、遺構の名称として「久喜銀山遺跡」を用いています。
遺跡は、1988年度(昭和63年度)に旧瑞穂町教育委員会が実施した町内遺跡詳細分布調査によって存在が明らかになりました。
2007年(平成19年)には、地元有志によって久喜・大林銀山保全委員会が結成され、地下登り煙道(明治期の精錬所の排煙設備)への遊歩道整備や、鉱石を運搬したトロッコ復元など、遺跡の保存や活用が住民主体で行われてきました。
2010年度(平成22~23年)から、邑南町教育委員会が調査事業を開始し、2013年(平成25年)には、久喜・大林銀山遺構調査指導委員会(現久喜銀山遺跡調査指導委員会)を設置組織しました。
(3) 久喜精錬所跡発掘調査
◆久喜銀山遺跡の調査
2. 発掘調査
(1)縄手吹所跡発掘調査
縄手吹所跡は、久喜銀山遺跡が隆盛を誇ったとされる戦国時代から江戸時代初期にかけて操業された遺跡です。2019年度のトレンチ調査によって精錬炉が3基、見つかりました。その1基を覆う流入土の中から17世紀前半の肥前陶器(唐津焼)が出土しており、操業年代はそれよりも古いと考えられます。周囲には露頭堀跡など古い時代の採掘跡が複数あり、16世紀後半の陶磁器が採取されていること、炉跡で検出した木炭片の放射性炭素年代測定の結果から、操業は戦国時代後半から江戸時代初期と考えられます。
なお、この遺跡に残されているスラグの量から推定できる戦国期末から江戸時代初期の全生産量は、銀がおよそ7トン、鉛は650トンでした。
日本の大規模な銀鉛山では、長期にわたる生産活動によって16〜17世紀のスラグ堆積量を知ることは不可能になっています。久喜銀山のように時代がある程度限定できるスラグの集積が認められる鉱山遺跡は希有な存在と言えます。
3. 文献調査の成果
◆久喜銀山の地質鉱床
久喜銀山の銀鉛鉱床は、西部の久喜・岩屋鉱脈群と、東部の大林鉱脈群から構成されます。また、中間地域には小規模な床屋鉱脈群があります。
久喜・岩屋鉱脈群は南北に走る粘土断層とそこから派生する北東−南西方向の割れ目を充填した多数の石英脈でできています。鉱脈富鉱部の走向延長は約20〜30メートルと短いですが、傾斜方向にはよく連続しています。大横谷坑坑口の北方では、富鉱部が路頭(標高480メートル)から傾斜方向に170メートル以上連続し、高低差120メートルの間が開発されています。鉱石の性質は鉱脈群の南北で大きな違いがあり、南部の久喜地区の鉱石は方鉛鉱に富み、銀の品位は0.042%(上鉱)と高くなっています。これに対して北部の鉱石は磁鉄鉱が主で、黄銅鉱・方鉛鉱は少なく、銀鉛鉱としての価値は低くなっています。東部の大林鉱脈群は、個々の鉱脈の走向延長は短く、久喜地区に比べて品位は低くなっています。久喜・岩屋鉱脈群と大林鉱脈群の中間にある床屋鉱脈群は、鉱脈の規模が小さく、床屋鉱脈群北部には磁鉄鉱採掘した牛ヶ迫の旧抗があります。
◆ 久喜銀山の位置づけとその評価
◆久喜銀山の歴史
1、戦国時代から安土桃山時代
(1)銀山開発の背景
日本の戦国時代には、商品経済の発展によって金銀の需要が増していました。また、金銀は軍事の資金になるので、戦国大名は領内の金銀山の開発に努めていました。そのころ、明代中国では、銀経済化が進み、国内で銀が不足する状態でした。1511年(永正8年)に、マラッカを占領したポルトガル人は金銀を持ち込んで中国との交易(密貿易)を拡大していました。
日本でも、日明貿易を通して銀の必要性が認識されるようになり、1527年(大永7年)、博多の商人の主導で、石見銀山の銀鉛鉱の採取が行われました(田中2006)。さらに石見銀山では1533年(天文2年)ごろに、鉛の少ない銀鉱に鉛を加えて精錬する新技術(合せ吹)が開始され、この新技術によって1542年(天文11年)には、生野銀山、鶴子銀山が開発されました。
1543年(天文12年)のポルトガル人の来航と鉄砲の伝来は、こうした日本産銀の増加に関係した出来事です。鉛は銀生産に必要であるとともに鉄砲玉としても需要が増大していました。鉛山開発が進行する一方で、銀を手にした大名による鉛の輸入も増加したに違いありませんが、その数量は分かっていません。
このような国内外の背景の下、毛利氏領内に所在する久喜銀山も開発されたと考えます。久喜銀山で生産される銀の量は、最盛期(16世紀末)の年産銀量が1㌧以上と規模として大きなものであると評価されており、石見銀山とともに毛利氏の軍事資金をまかなう有力な銀山であったと推測されています。
(2)戦国大名毛利氏の支配と銀・鉛
毛利氏は1556年(弘治2年)9月に石見銀山を尼子氏に奪われており、銀山の開発が重要な課題でした。その後、1562年(永禄4年)、毛利氏は尼子氏から石見銀山を奪取し、1566年(永禄9年)に尼子氏の出雲国を平定しました。
毛利氏にとって銀は財政を支える重要な基盤であると同時に、軍事面でも必要不可欠なものでした。特に、毛利氏は鉄砲を早くから使用していて、すでに1557年(弘治3年)の周防須々万沼の城攻めでは鉄砲中間が編成されるまでになっていました(秋山1998)。毛利氏は火薬の原料である硝石を中国から輸入しており、こうした購入にも銀が使用されました。また、鉄砲の使用には鉛玉が不可欠で、その調達に向けて領国内での鉛山開発を進めていました。
(3)久喜銀山の開発時期と産銀量をめぐる問題
毛利時代の久喜銀山に関する唯一の資料として「石見国図」(宮城県図書館蔵)があります。この絵図は1590年(天正18年)に作成された国絵図の写しで、石見一国を描いたものとしては最古であると考えられています(川村2006)。この絵図には「くき銀山」のほかに「銀山・せんの山」と記した石見銀山、「津もの銀山」、「五か所銀山」が描かれています。「五か所銀山の内小野の銀山」は「今はすたる」と注記があり、石見国内の銀山の開発がかなり早かったことを示唆しています。
久喜銀山の開始時期を確定できる文書は存在しませんが、伝承(『石州銀山記』)にあるように1560年(永禄3年)、あるいは久喜村に浄土真宗高善寺が移転した1542年(天文11年)など、16世紀半ばの可能性があると考えられています。
毛利氏は1582年(天正10年)に秀吉と講和を結んだ後も領内の銀山を支配します。、豊臣秀吉朱印状(毛利家文書)に「石見国先銀山之外、所々有之分銀子事(中略)取集可有運上候」とあり、秀吉に銀を進上していました。石見国先銀山(石見銀山)の収入は大阪の人質の「賄」に、秀吉への運上は久喜k銀山からの産銀があてられた、とされています(秋山2003)。そしてこのことから「慶長三年蔵納目録」にある「中国ニテ所々に銀山」4869枚(712キロ)は、「石見国絵図(1617年(元和3年~1619年(元和5年)」(浜田市教育委員会蔵)にある久喜銀山、都茂銀山、五カ所銀山と膨張の蔵目喜銀山などの銀鉛山から産出した銀の一部と考えられます。てもいいのではないだろうか。鉱山の規模と鉱石の銀品位を勘案すれば、高品位鉱を採掘していた久喜銀山の寄与は大きかったと考えられます。他の鉱山産の銀は鉛に0.1%ほど、あるいは銅に0.05%ほど含有されていたのに対して、久喜銀山の鉛には0.8%もの銀が含まれていたのです。16世紀末の久喜銀山の年産銀量は1㌧前後あった可能性があります。
◆久喜銀山遺跡の調査
2. 発掘調査
(2)床屋吹所跡発掘調査
床屋吹所跡は、周辺の採掘場で銀鉛鉱を採掘した精錬した遺跡です。2013年〜2015年(平成27年)に実施した発掘調査の結果、焼竈で焙焼した鉱石を製錬し、得られた含銀鉛を灰吹して銀を生産すること、また、そのとき生じる「ろかす」を吹き戻して鉛を回収するという一連の工程が判明しました。
精錬炉の数に比較して焼竈の数は多く、調査区内で約140カ所が検出されました。焼竈は5〜10期を基本単位として、鉱石の焙焼に使用されたものと考えられます。
検出された精錬炉は、当初焼竈として使用していたものを転用したものと思われます。ろかす吹床跡は、周囲から炭酸鉛が検出された遺構です。床屋吹所跡で、ろかす吹きが恒常的に行われていたかは不明です。灰吹床は確認されませんでしたが、周辺に存在する可能性はあります。
床屋吹所跡の操業時期については、遺構と共伴する陶磁器の年代、焼竈・床跡から採取された炭化物の放射性炭素年代測定、久喜銀山の操業が18世紀初めにはほとんど停止状態であることとする古文書の記述などから、17世紀後半と考えられます。
◆はじめに
久喜銀山遺跡は、銀を含んだ鉛鉱を産出した戦国時代から近代にかけての遺跡で、戦国時代初期と推定される露頭堀跡、鉱石を加熱する焼竈跡、精錬炉跡、近代の精錬所跡などがあります。
銀鉛鉱山の採掘から精錬までの過程に使用された遺構等の国内の調査例は少なく、日本の銀鉛生産を示す貴重な遺跡として、2021(令和3)年10月に国史跡に指定されました。
◆今後の調査研究の課題について
これまでの調査で、久喜地区における久喜銀山の採掘から精錬の様子については判明しましたが、大林地区、岩屋地区についての遺構等の調査は未だなされていません。久喜銀山の全体像をまずは明らかにする目的で開始された調査ですので、引き続き大林地区、岩屋地区の調査を進めていきたいところです。
また、銀と鉛の生産に関する遺構等の調査を中心に進めてきましたが、当時のまちの様子や従事した人々の様子は未だ解明されていません。石造物や文献調査が課題となります。
発掘調査を含めた基礎的調査をさらに継続して、石見銀山遺跡や他の銀鉱山遺跡との比較研究に向けて情報の蓄積と研究を進めていく必要があります。
※本稿は「邑南町教育委員会(2021)久喜銀山遺跡発掘調査報告書〜総括編〜」の要約です。
参考文献
秋山伸隆(1998)戦国大名毛利氏の研究、吉川弘文館
川村博忠(2006)豊臣政権下毛利氏戦国時代の石見国絵図−その内容と作成目的−歴史地理学。
田中圭一(2006)『記録に見る初期石見銀山』石見銀山歴史文献調査団、近世初期石見銀山資料集、島根県教育委員会。
左の目次から、下線のある項目をクリックしていただくと、
その項目の内容が表示されます。
◆久喜銀山遺跡の調査
2. 発掘調査
(3)久喜精錬所跡発掘調査
久喜精錬所跡は、明治期に堀家によって再開発された水抜抗抗口付近に設置された精錬所です。2012年度に発掘調査を実施し、キルン(乾燥窯)、ストール(焙焼炉)、溶鉱炉等、西洋技術を取り入れた装置の配置や構造、また、主要坑道は水抜抗で、久喜精錬所周辺で採掘から精錬までの一連の工程とそれを示す遺構がまとまって遺っていることが分かりました。
精錬の過程で発生する有毒な排煙は、レンガ積みの煙道を伝って山頂の煙突から、山腹周囲の限られた範囲に放出されるという当時としては画期的な方法が用いられました。
◆久喜銀山の歴史
2、江戸時代の久喜銀山
(1) 江戸幕府の石見国支配と久喜・大林銀山
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、その10日後に石見銀山の7ヶ村に禁制を発し、直轄化の第一歩を進めました。家康は代官頭の大久保長安と彦坂小刑部を石見国に下向させ、同年11月18日付けで毛利支配下の宗岡弥右衛門・吉岡隼人・今井越中守・石田喜右衛門等の銀山約人と引き継ぎを行わせました。
石見国幕領は、石見銀山周辺の邇摩郡・安濃郡に設定とされたが、久喜銀山などの鉱山所在地の村も直轄地となりました。家康が秀吉に倣って公儀領有の原則で、石見・佐渡・生野などの鉱山を直轄地として支配したことは周知の事実ですが、久喜銀山の事例にはこうした原則が石見国のような個別の支配においても徹底されたことを示すものといえます。
石見銀山の領有後、家康は側近の大久保長安を初代石見銀山奉行に任命しました。大久保は毛利の鉱山支配の在り方を刷新し、個別の間歩(鉱区)や山師及びそれに属する銀堀等の技術者を、陣屋が直接支配する仕組をとりました。その上で、個々の間歩経営に関しても厳しく管理しました。また、領内にある銀山の状況も調査していて、1604年(慶長9年)には「くき大はやし入精可被申付候」と、久喜・大林の開発に精を入れるように指示していました。
石見国の支配にあたって、1602年(慶長7年)から1606年(慶長11年)にかけて検地をを行い、これに基づいて各村の石高と領域が確定されました。なお、大林村については、「石見国図」に名前の記載がないことから、この検地によって久喜から村切りされて、新たに誕生した村と考えられます。
「石見国絵図(1617年(元和3年)〜1619年(元和5年)」(浜田市教育委員会蔵)には、前述のとおり大森銀山のほかに、都茂、五カ所銀山、久喜・大林銀山が描かれています。江戸時代には、久喜銀山は久喜と大林の二つの銀山になっていたことが分かります。また、岩屋地区の鉱山は、浜田藩領になりますので、絵図には記されていません。
(2) 銀山町の様相
大林銀山に関しては1602年「石州邑智郡大林村銀山屋敷帳」が現存しています。これによりますと、大林の銀山町は、1町5反3畝12歩、家数151軒があり、このなかには、「銀や」・「ふきや・ふろや」・「かち(鍛冶)」・「すみ」などの銀生産に関係する屋号がうかがえます。また、「たばこや」・「かみゆい」・「こうや」・「くわや」・「さる(笊)」などの屋号も見られるほかにも、寺院として光明坊、来光寺の2つの寺がありました。この検地帳からは、銀山の開発に伴って多様な職業や階層が集住する銀山町が形成されていたことが分かります。
しかし、その一方で「明屋敷(空き家)」が25カ所もあることから、鉱山としてはすでに最盛期を過ぎ、衰退局面に入っていたと考えられます。
◆久喜銀山遺跡の調査
3. 文献調査の成果
久喜銀山に関する文献資料は極めて僅少で、描かれる久喜銀山の歴史像も断片的なものにならざるを得ません。
久喜銀山の開発時期は明確ではありませんが、文書の記述や寺院の移転から見ても16世紀半ばには開発された可能性があります。天正年間(1573から1592年)には最盛期を迎え、産銀の一部は豊臣秀吉に上納されました。江戸時代になると天領として支配されましたが、大林の検地帳などから17世紀には衰退期にさしかかり、18世紀には休山状態となりました。
◆久喜銀山遺跡の調査
これまでの遺跡の全域にわたる
採掘跡等分布調査、
久喜精錬所跡発掘調査、
床屋吹所跡発掘調査、
床屋吹所跡調査、
縄手吹所跡発掘調査
及び、文献調査を実施しました。
◆久喜銀山の位置づけとその評価
1.日本の古代中世の銀生産技術を示す典型例
久喜銀山は対馬の銀山と同じく、鉛鉱を採掘した鉱山であることは先に説明しました。鉛鉱を精錬して得られる金属鉛は通常0.1%ほどの銀を含んでいます。この銀は灰吹法によって分離されます。古代中世において、銀は鉛鉱から得た鉛を灰吹することによって生産されました。したがって鉛山は銀鉛山とも呼ばれます。生産されるのは銀と酸化鉛で、酸化鉛はそのまま、あるいは金属鉛を吹き戻して利用されました。
久喜銀山が銀の生産を開始した16世紀後半においての鉱石の採掘は、坑道による採掘が一般化する以前で、地表に現れている鉱脈を採掘する露頭堀が主体です。久喜銀山全域には、鉱脈に沿った溝掘と富鉱部を掘り進む穴掘り(竪穴・横穴掘り)が数多く残されています。全国的に対馬(長崎県)、神岡(岐阜県)等の銀鉛鉱山の採掘から精錬までの過程に使用された遺構等の調査例はなく、久喜での調査例が初めてであると考えられます。このように、久喜銀山は中世における採掘から精錬までの日本の銀生産技術を示す優れた遺跡であると評価されています。
◆久喜銀山遺跡の調査
1. 採掘跡等分布調査
2010年〜2014年に採掘跡等分布調査を実施し、約5平方キロメートルの範囲に約1,500カ所の採掘跡等が存在することや、その良好な残存状況も確認し、その採掘跡の9割以上が露頭堀であることが分かりました。これは、戦国末期以前の可能性を示す採掘跡が多く残されていることを示しています
2. 戦国時代の毛利領内の経済
・軍事を担った銀と鉛の生産遺跡
戻る
3. 明治期の民間による
久喜鉱山の開発
◆久喜銀山の位置づけとその評価
3.石見銀山との関係
鉛の山地を調べる有力な手段として鉛同位体組成分析を用いて、石見銀山のスラグと鉱石、磯竹鉛山(大田市五十猛町)の鉱石、久喜銀山の鉱石で分析を実施したところ、石見銀山で16世紀後半から17世紀初頭に創業された地域で久喜銀山の鉛を使用していたことが判明しました。その時代、久喜銀山産の鉛が、石見銀山で使用された鉛の一部をまかなっていた可能性が示されました。
なお、久喜銀山で生産された含銀鉛の輸送経路について、これまでのところ、直接文書等での確認はできていません。しかし、古くから江の川を利用した水運が盛んであったこの流域では、陸路とともに鉄製品や鉱物資源の運搬において江の川が果たした役割は重要で、久喜銀山で生産された銀や鉛も、江津港、温泉津港を経由して石見銀山に運び込まれた可能性はあると考えられます。
2023.1.1 新年、明けましておめでとうございます。
お申し込み・お問い合わせは、こちらまでお願い致します。
イベント等をご案内致します。
久喜銀山ガイドの会
050-5207-5612
平日9時〜17時
kukiginzan@gmail.com
久喜銀山振興協議会の活動内容
設立 2022年3月1日
久喜銀山振興協議会は、島根県邑南町久喜・大林地区にある国史跡・久喜銀山遺跡を軸にした観光振興を目指し、邑南町出羽地区内の団体で組織する団体です。令和4年度の観光庁の「第二のふるさと」づくり事業の採択を受けたことときっかけに設立しました。久喜・大林地区を含む邑南町出羽地区に繰り返し訪れるファンや関係人口づくりを通して、持続的な観光の在り方を検討、実践するための組織です。
観光庁事業では、「埋もれた価値を掘り起こそう!久喜銀山から始まるコミュケーションツーリズム創出事業」と名付け、島根・広島両県内を主要なターゲットに、出羽地区を「第二の古里」と感じ、繰り返し訪れてもらう人を増やし、人とのつながり(コミュニケーション)を現地を訪ねる動機にしていくことを目的にしています。
久喜・大林地区では、2007年から住民が久喜銀山の整備を自主的に進めてきました。近年は高齢化が進む中で住民らがガイドを担いながら、年間300人程度を迎えているところですが、ガイドや草刈りなどの人手が不足。このため、草刈りなどの環境整備活動やガイド役を担える関係人口を町外から迎えることを目指しています。
森脇会長は「住民を中心に久喜銀山を盛り上げていこうと頑張ってきたが、高齢化が進む中で、持続できる観光を実現していきたい」と話しています。
https://forms.office.com/r/3uKAHekVr2
クリックで登録ページへ
出羽に生まれ、今は離れた場所に暮らす方やたびたび出羽に足を運んでくださる方、出羽に思いを寄せてくださる皆さまに、四季折々の地域の情報をお届けします。
久喜銀山振興協議会では、邑南町出羽地区を舞台に、国史跡「久喜銀山」を守る活動などに継続的に関わってくださる方とのコミュニケーションを深めるため、旬の情報やお得な割引を適応する会員制度を立ち上げました。入会費・年会費無料です。
特典1 旬の情報が届く
地域の活動・イベントの案内など、四季折々の地域の情報をお届けします。会員限定のクローズドイベントも予定しています。
特典2 高速バス乗車割引
広島~瑞穂を結ぶ高速バス「石見銀山号」(石見交通)を通常運賃4100円が往復3000円でご乗車いただけます。※今年度中に適応開始予定
特典3 仲間が見つかる
を掘り起こす活動を通じて、住民や会員同士が一緒になって、思いを寄せる居場所やコミュニティ(第2のふるさと)をつくっていきましょう。
久喜銀山振興協議会(観光庁モデル事業「第2のふるさとプロジェクト」)